大学を卒業して就職した22歳の春。
私は社会人となり、会社員として生きていくことの現実を突きつけられた。
幕開けた絶望の社畜生活。
一日の、一週間の、一年の大半の時間を会社に拘束される生活。
1ミリもやりがいを感じられず、1日がとてつもなく長く感じて気が狂いそうになる。
クソ嫌味ったらしくミスを指摘してくる、クソ上から目線で説教してくる上司。
それだけの思いをしているのに給料日に振り込まれる金額は雀の涙。
地元のとある中小企業に就職した私は日々に絶望を感じていました。
もちろん、フルタイムで働いて学生の時より自由に使えるお金が増える。
欲しいものを買えるようになったり、休みの日の選択肢が増えたり。
良くしてくれる上司もいてご飯に連れて行ってくれて悩みを聞いてくれたり、
仕事・会社に文句を言い合ったり、くだらない話で盛り上がることもある。
けど、なんか違う。
いや、なんかどころじゃない。
全然違う。
俺はこれから死ぬまでこの会社に居続けて人生の大半の時間を拘束されて生きていくのか?
こんなクソの上司とこれからもずっと一緒に働かないといけないのか?
この会社の給料で俺は本当に充実した人生を送れるのか?
社会人になるということの現実を知った時、私は全身の毛がよだちました。
おいおい、タチの悪い冗談だろ?
これからの人生に全く希望が見いだせない、今日も仕事かあ…と死んだ目で会社に向かう日々がこれから途方もないほどの長期間繰り返されることを想像したとき。
大人になるってこんなに不自由なのか?
俺はこんなことをするために今まで生きてきたのか?
自由が、欲しい。
働きたくない、働きたくない、働きたくない。
心底、そう思った。
起業すれば、自由になれる
社畜に絶望した私はこう考えました。
会社に雇われている限り、その会社に全てを決定される。
仕事の内容も、人間関係も、拘束時間も、給料も。
この先もずっと不自由な人生であることを変えることができない。
それなら、自分の力で稼ぐしかない。
起業すれば何の仕事をするか?誰と付き合うか?何時間働くか?いつ遊ぶか?どれだけの報酬を得るか?
全て自分で決めることができる。
じゃあ何をすれば私は他人からお金を払ってもらうことができるのか?
それだけのことを提供できる価値が私のどこにあるのか?
色々調べたり考えたりした結果、私はインターネットビジネス・情報教材で起業することを決めた。
私がこれまで経験してきた失敗や成功(特にバスケにおいて)の情報を教材にして上手くなれなくて悩んでいる人にその問題を解決する価値を提供する、その対価としてお金を払っていただく。
もともとバスケが上手くなれなくて悩み、上手くなるための方法を調べまくり、たくさん失敗もしながら上達という成功を掴んだ私はその情報がビジネスになると思いこのブログを立ち上げ、自ら作成したコンテンツを売ることを計画しました。
いつまでこんなクソみたいな日々を続けるんだ?
俺はやれるはずだ。会社に雇われなくても自分の力で飯を食っていけるはずだ。
そう思い、相変わらず絶望したままの会社員を続けながら帰宅後はブログの記事を書いたり、ビジネスを形にするための勉強をしていました。
最初の数か月は起業のための作業や勉強を続けることができていた。
徐々にブログのアクセスも増えていき、読者の方から成果の報告を貰うこともあった。
「このまま続けていけば大丈夫だ。社畜という生き方からオサラバできるはずだ。」
そんな日々を過ごしていくうちに私はますます雇われて働いていくことにストレスを感じるようになった。
「このままじゃ全然時間が足りない。仕事が終わって疲れた状態じゃ作業や勉強に集中できない、
平日の僅かな時間と週に一日か二日だけの休日でチマチマ細切れにやっても全然進まない。」
「いつか自分の力で飯を食えるようになってこの会社をやめてやる。けど、そのいつかはいつ来るんだ?」
死んだ目で会社に向かい、仕事にもやる気が出ない・全然手につかない。
集中できないからミスが増える、上司から怒られる回数も増える。
会社にいる以上、仕事をやらないといけないし周りの人間に迷惑をかけちゃダメなのは分かってる。
上司がムカつく言い方で怒ってくるのもその責任を私が果たせていないからって分かってる。
けど、会社で働くストレスが日に日に溜まって爆発した。
「このままじゃ、そのいつかはいつまでたっても来ない。」
そう感じた私は会社を辞める決断をしました。
こんなんで辞めてたらどこいっても通用しないぞって小言を言ってくる人もいたし、きついかもしれないけどもう少し頑張ってみないかと声をかけてくれた人もいた。
はじめて正社員として働いた会社に1年半で辞表を提出した。
これであのクソみたいな仕事、会社とは関わらずに済む。
辞めた次の日、朝起きて「あ、今日から会社行かなくていいんだ」とスゲー爽やかな気分になった。
新しいパンツをはいたばかりの正月元旦の朝のように。
よし!今日から俺は起業して生きて自由を掴むんだ。やってやる!
待っていたのは会社員以上の地獄
そして私は起業で経済的自由、人間関係の自由、時間的自由を手に入れ、何物にも拘束されない自由な人生を送れるようになりました。
…そんな巷に溢れている謳い文句のような人生にはならなかった。
最初は作業も勉強も継続できていましたが、次第に焦り・不安が大きくなっていった。
大して貯金もしていなかった口座残高は電光石火で減っていく。
「オマエ、本当に起業して生きていくつもりか?会社員のほうが安定だぞ」というこれまでの人生から刷り込まれた常識、当たり前。
周りの人間は働いてお金を稼いで遊んだり、車を買ったり、恋人とデートしている。
それなのに俺はそのどれもができない。
あれだけクソだと思っていた会社からの給料でも、それが私の生活を支えていた。
周囲からも「働いている人間」から「働いていない人間」「すぐに会社をやめる人間」というレッテルを貼られているんじゃないか?という妄想も湧いてきた。
そのときは気づけなかったけど私は会社に守られていた、経済的な面でも社会的信用からの面でも。
あれ?俺、本当にこのままで大丈夫か?
このままじゃ携帯代もすぐに払えなくなるぞ。
それから私は塾講師のバイトをしながら起業を進めていくことに。
会社員のときよりも遥かに給料は少ないけど、使える時間はたくさんある。
よし、やってやるぞと気合を入れなおした。
しかし、私は行動を継続することができなかった。
バイトの収入じゃ手元に残るお金は僅か。会社員のときのように遊んだり、欲しいものは買えない。
世間体、周りの人間の目が気になってしまう。フリーターであることに対する負い目。
すぐに結果が出ないことは分かっていた、
つもりだった。
しかし、焦りや不安が増大していき本当に俺が発信している情報は読まれる価値があるのか?
もしかしたら俺が発信した情報は間違っているんじゃないのか?
自分に対する疑念が膨らんでいき、自分を信じることができなくなっていった。
少ないバイトの収入、会社に出ていればお金が振り込まれていた会社員とは違ってどれだけ作業をしても結果が出なければ、読者が私の情報にお金を払う価値を感じてくれなければ永遠に報酬はゼロのまま。
あれ?これってもしかしたら会社員時代よりも不自由になっていないか?
経済的にも、精神的、時間的にも。
確かに私のブログを読んでくれる、私の情報にポジティブな反応もある、
私の情報にお金を払っていただける方もいた。
けど、収入は会社員のときよりも遥かに低かったし安定して収入が入ってくるわけでもない。
私が夢見た好きな時に働いて、好きなときに好きなものにお金を使うという生活からは程遠い。
俺は起業して自由になるなんて口ではデカいこと言っていたけど。
俺はできるなんて思ってたけど、とんだ勘違いをしていたんじゃないか?
社会に出たばかりのどこにでもいるそこらへんのやつが言っていることに価値なんかあるのか?
会社員として生きている周りの人間のほうが人生を楽しんでるように見える。
やっぱり、会社員に戻ろうか…
いやいや、あの地獄の日々を思い出せ。それが嫌で会社を辞めたんだろ?
オマエは本当にやり切ったと言えるくらいやったのか?やってないだろ?
だったら死ぬ気でやれよ。
そうやって自分のケツを叩いてハッパをかけてもやっぱり俺が起業なんて無理なんじゃないか?っていう逃げ腰の自分が頭にチラつく。
会社員が嫌で起業して生きていきたい自分と会社員に戻ろうかという自分。
その狭間でウダウダと悩み、「よしやるぞ!」「やっぱ無理だ…」を何度も繰り返すうちにやっぱり無理だ…が勝つようになっていき。
ほんのちょっと作業や勉強をして「やる気が出ない」「疲れた」「少し休憩してから集中しよう」とyoutubeの動画やアニメ、漫画、ゲームなどの娯楽にほとんどの時間を使って現実逃避してバイトにいく生活になっていった。
数センチ進んで、数日間止まって、また数センチ進むという意味の分からないゴミのような、廃人のような生活を送るようになり。
金がない、成長してない、将来性もない自分に負い目を感じ人と会うことや話すことが怖くなり。
振り返れば会社員のときよりも圧倒的に不自由な日々を送っていた。
会社員のときよりもストレスが半端ない地獄のような日々を送っていた。
あれだけクソだと言っていた会社員への出戻り
そんな状態で全く結果が出ないまま、バイトで食いつなぐ日々が始まってから一年がたったころ。
このままじゃ、ダメだ。
今の俺はクソでゴミだ。
何かを変えないとフリーターでフラフラしたまま時間だけが過ぎていく。
私は高校の同級生から人材紹介会社の人を紹介してもらい、
数社と面接をした後、正社員として営業で働くことになりました。
あれだけクソだとけなしていた社畜へと再び戻りました。
当初は仕事に慣れることに必死だったり、上司からもたくさん怒られ、一日の大半を会社に拘束される。
そこに苛立ちを感じながらも私ははじめて就職したときのことを思い出して懐かしさも感じていた。
「あー、そうそう。会社で働くってこういうことだったわ」
最初の会社よりも仕事にやりがいがあったし、キツイことも多いけど面白さもあった。
上司も良い人が多くて怒られることもあるけど筋が通っていることが多かったし言い方も納得できた。
給料も多いとは言えないけどバイトの時より遥かに多い、一人で生きていくぶんには十分。
正社員として働いてる、フリーターとしての負い目がなくなった。
堂々と人に会って、話せるようになった。
やってるうちに新規の顧客を開拓したり、困っているときに上司が助けてくれたり、自分の見つけてきたお客さんからの売り上げが上がっていったり、お客さんがご飯や飲みに連れていってくれたりして。
それまで見えてなかった会社員の良い所も分かるようになった。
会社に所属していれば完全な自由があるわけじゃないけど給料は保証されてるし、少ない時間とはいえ自由に使える時間もある、客からの要求・期待に応えて感謝されたり、大きな注文を貰えたらやりがいも感じる。
フリーターで地獄と思える日々を過ごして自分にとって、俺はやっぱり会社員として生きていったほうがいいんじゃないか?と思うこともあったけど。
…けど、それでもやっぱり。
会社に縛られて働くって不自由だよなっていう思いが日に日に強くなっていった。
時間、人間関係、収入、仕事内容の全てが会社に決められている。
週に5日、8時間働いて仕事が溜まっていると残業。
仕事の量が増えたときは次々に対応に追われるストレス。
上司は基本的に良い人だけど機嫌が悪い時は気も遣うし、理不尽な怒り方にイライラするときもあった。
会社が収入を決定していて生きてはいけるけど満足できる生活にはならない。
客の理不尽な要求にストレスを抱えながら対応しないといけないときもある。
自分がコントールできない、選択できない領域でもやらなければならない。
コイツとは関わりたくないって思う瞬間があっても愛想よく振る舞わなければならない。
メチャクチャ腹が立ったり、そっちが悪いだろって思うことでも仕事だからやらなければならない。
ああ、やっぱり会社員に戻ってみたけど思うことは同じだ。
確かに妥協すれば、我慢すればそれなりに良い思いをしながら生きていけるかもしれない。
けど、それで俺は本当に心が満たされるのか?これを何十年も続けていくことに耐えられるのか?
やっぱり、会社員のままいることには耐えられない。
私はもう一度起業に向き合うことにしました。
諦めて決断を保留した人間はどんな末路を辿るのか?
就職→フリーター→再就職。
この経験から私の脳みそには1つの教訓が刻み込まれました。
それは諦めて決断を保留した人間は誰からも必要とされない無価値の人間のまま人生詰むってこと。
何を諦めて、何を諦めないのか?
この選択と決断は人生においてしばしば訪れますよね?
会社員として生きるのか?投資家として生きるのか?起業するのか?
あるいはそれらを並行してやっていくのか?
バスケでプロを目指すのか?アマチュアのまま楽しむのか?
上手くなりたいと思うのか?今のレベルのままでも十分だと考えるのか?
大人になるにつれて、年を取るにつれて自身の限界・現実が身に染みるようになる。
子どもの頃はプロ野球選手になるって言ってても大人になるつれて俺には無理だと思うこともあるでしょう。
転職したら、会社を辞めたら収入が減る、なくなるから無理だ。今のままが一番だ。
俺には今の会社以外で生きていくだけの能力はないだろう。
能力が高い選手を見て、俺があんなに上手くなることはない。
今のレベルでバスケをそれなりに楽しめたらいいじゃないか。
私は会社員でいることやバスケを上手くなることを諦めることが
間違っている、劣っていると言いたいのではありません。
私の周りも会社員で頑張ってる、家族を養うために働いている人はたくさんいますし、それはメチャクチャかっこよくて、素敵だと思うし尊敬しています。
そこまでバスケが上手くなくても楽しそうにバスケをしている、
チームのためにできることを頑張っている人もカッコいいと思う。
何を諦めて、何を諦めないのか?
これは人によって違いますし、その人が決めたことなら周りの人間がとやかく言う資格はない。
私が言いたいのは諦めた選択肢、保留した選択肢というのは基本的にその期間を取り戻すことができないっていうこと。
起業家という選択を諦めれば、当然起業に必要な能力・スキルが磨かれることはありません。
会社で働きながら副業で起業していつか独立しようと保留している期間は起業に使える時間・エネルギー・労力が大幅に減ります。
別にバスケが上手くなれなくてもいいか、と今までと同じ練習量・練習のやり方をする。
その間の成長スピードはこれまでと変わりません。
自分が諦めている期間に諦めなかった他人、これをやるぞ!と覚悟と決意を固め、決断を保留せずに持てるリソース(時間・金・労力)を全力投球していた他人はどんどん成長していき、成功に近づいていく。
そして、後になってやっぱり今のままじゃダメだ、変わらなきゃ。
あのとき諦めずに頑張っていればと後悔しても諦めていたとき・保留していたときの時間は返ってこないし、そのフィールドで何も力がついていない・成長していない状態から再度スタートしなければならない。
努力すれば夢は叶う、諦めなければ報われる。
その声が取り上げられるのは成功者だけ。
その裏には数えきれないほどの努力が報われなかった屍が並んでいる。
だから、さっさと諦めて別の道に進みましょう。
別のジャンル、フィールドで戦いましょうというのは一理ある。
ただし、それはどこかで能力を積み上げた者に当てはまる論理なんじゃないか。
例えばニートのまま仕事の能力を全然身につけてこなかった人間が
どこか別のフィールドに行った途端に仕事ができるようになることはない。
陸上の為末大さんは確かに短距離からハードルに競技を変えて成功したが、
それは短距離で努力して培ってきた能力があったからのはず。
実際に結果を残している人間、成功している人間は諦めなかった人間だ。
オマエには無理だよと言われてもやり続け、失敗や挫折、不安や焦りを跳ね返してやり続けた人間だ。
対して何の能力も身につけないまま、成長もしないまま俺には無理だ、別の環境なら俺は生きるはずだと早々に諦めた人間には何が残っているのだろうか?
他に輝ける居場所があるのだろうか?別の場所でリターンを得ることができるのだろうか?
何の能力も身につけないまま、成長してないまま、自分に甘い言い訳を探して途中で諦めた人間が何を得られるのか?誰が必要とするのか?
人間は得てして自分を過大評価しやすい。
俺には一人で何かを成し遂げられる能力がある。
俺にはまだ時間がある。他の選択肢がある。何回でもやり直せる。
しかし、本当にそうだろうか?
オマエに本当にそれだけの能力があるのか?
時間が、選択肢が残されているのだろうか?
大した人間でもないのに、何の能力もないのに数度の失敗で投げ出し、たった数か月で諦めるのは自分を過大評価してるから、俺ならこのままでもいつか成功できると思っているからじゃないだろうか?
そんなヤツが諦める、諦めないの発想をして何の意味があるのか?
それで後からやっぱり諦めなければよかったとか、別の道を選んでいたらと考えても結局、行きつく先は満足できない、絶望した人生なのではないだろうか?
だってそのための力をつけることを諦めたんだから、保留したんだから。
そして何の力もつけないまま、誰からも必要とされない無価値のゴミ人間で人生が詰む。
諦める、保留するということはその選択肢を捨てることだ。
捨てた選択肢は時間が経てば経つほど取り返すことができない。
私はこのことに気づくまで逃げていた。逃げまくっていた。
ラクなほうに、自分に都合がいいほうに、弱い自分を正当化できるように。
ただ、こう思った。
あ、このままだったら俺の人生詰むなと。
もちろん、人によって何を諦めるのか?何を諦めないのか?は違う。
何をいつからやり始めるのか?どれだけやるのか?
やり続けるのか?辞めるのか?もう一度再スタートを切るのか?
それは自由だ。
ただ、諦めたその先に本当に自分が満足できる未来があるのか?
妥協しているという自覚があるのなら、それを受け入れ続けることができるのか?
諦めて決断を保留して本当にこの先の人生を生き抜く力がつくのか?
これは頭に入れておかないと自分の人生に満足できなまま、
あっちこっちへフラフラしたまま時間だけが過ぎ去っていき、
無価値のまま誰からも必要とされず人生詰むぞ。
諦めて決断を保留してうだつの上がらない日々を送っていたあの頃の自分へ。

